就職活動

道路では安全運転、職場では自己責任?理不尽なダブルスタンダードの構造

Akatsuki

道路の「譲り合い」と職場の「ハラスメント」の比較

日常生活の中で、私たちはさまざまな「ルールの遵守」や「善意の譲り合い」を目にします。しかし、同じ「他者を思いやる行動」であっても、それが展開される場所によって、周囲からの評価が全く異なってしまうという不条理が存在します。

分かりやすい例として、道路交通における行動と、職場や社会におけるハラスメント発生時の構造を比較してみます。

比較の軸道路交通における行動職場・社会における行動
協調的な側の行動事故を回避するため、信号を待ち、無理な割り込み車にブレーキを踏んで道を譲る職場の秩序を守り、仕事を円滑に進めるため、受動攻撃や理不尽を飲み込んで耐える
搾取的な側の行動他者がブレーキを踏んでくれる善意を前提に、車間を詰めて無理な割り込みを繰り返す相手が反撃してこない口の堅さを前提に、アイデアの盗用や環境型嫌がらせを行う
社会・周囲の評価割り込んだ側が100%悪く、ブレーキを踏んだ側は事故を防いだ良識人とされる奪った側が要領が良いと評価され、耐えた側が自己責任や隙があるとされる

道路の上であれば、衝突という最悪の事態を避けるためにブレーキを踏んだ側が正しく評価されます。しかし、これが心理的なハラスメントの領域に移行した途端、なぜか「衝突を避けるために耐えた側」が非難されるというダブルスタンダードが働きます。

なぜ社会は被害者を責めてしまうのか

この理不尽な反転現象を引き起こす原因の1つに、社会心理学で知られる「公正世界仮説(Just-World Hypothesis)」という認知バイアスがあります。

人間には、「この世界は安全で公正な場所であり、良いことをしていれば良い結果が、悪いことをしていれば悪い結果が返ってくる」と信じたい強い心理的欲求があります。

そのため、何の落ち度もない誠実な人が一方的に搾取されている現実を目撃すると、周囲の人間は「自分もいつ同じ目に遭うかわからない」という恐怖を抱きます。

その恐怖から逃れるために、周囲は無意識のうちに以下のような思考をたどります。

「被害に遭う側にも、はっきり断らないなどの原因があるはずだ。自分はそうではないから大丈夫だ」

つまり、社会が被害者に自己責任論を押し付けるのは、加害者を擁護するためではなく、「自分たちが住む世界は安全だ」という気休めの幻想を維持したいという、周囲の身勝手な自己防衛に過ぎません。

奪う側が評価される職場の歪み

この構造をさらに悪化させるのが、他者のリソースに依存する「フリーライダー(タダ乗り)」の存在です。

ハラスメントを行う側は、他者に対しては厳格な自己責任や境界線を要求する一方で、自分自身は他者の仕事の成果やノウハウを無断で流用しても許されるという、特権意識を平然と使い分けます。

そして、ルールを遵守して全体の安全を保とうとする人の善意にタダ乗りし、自分は車間距離を詰めて他者を絶対に入れないようにするような、非対称な支配関係を構築します。

このようなダブルスタンダードが容認される環境では、真面目に安全運転を続けている人ほど精神的なエネルギーを消耗させられてしまうという実態があることを認識されてください。

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