消えゆく「老後の安心」と正社員の特権。退職金・賞与廃止が進む本当の理由
かつての「会社が丸抱えするモデル」の終焉
日本の雇用慣行を長年支えてきた退職金制度は、2000年代初頭を境に大きな転換期を迎えました。日立製作所やNEC、富士通といった日本を代表する大手企業が相次いで退職一時金を縮小し、確定拠出年金(DC)への移行に舵を切ったためです(出典:各社当時の人事制度改定プレスリリースおよび経済報道)。
この改革の引き金となったのは、税制の変更ではなく「会計基準の変更」でした。「退職給付会計」が導入されたことにより、それまで企業の書類上に隠れていた「将来従業員に支払う退職金の約束(退職給付債務)」を、企業の負債として貸借対照表にハッキリと計上することが義務づけられました。
数千億円規模の潜在的な負債がいきなり表面化したことで、企業は自己資本比率の低下や格付けの下落という深刻な財務リスクに直面しました。企業の信用度や株価を守るため、この膨らんだ負債をいかに削減するかが最優先の経営課題となったのです。
企業のリスクを個人へ移転した確定拠出年金
財務上のリスクを排除するために企業が選択したのが、確定拠出年金の導入でした。
従来の退職一時金や確定給付企業年金(DB)では、将来支払う金額があらかじめ約束されており、運用のリターンが下回った場合の補填責任はすべて企業が負っていました。しかし、確定拠出年金では企業は毎月一定の掛け金を支払うだけで仕事が完了します。
将来受け取る退職金の額は従業員個人の運用結果に左右されるため、運用リスクは完全に個人へと移転されました。元本割れの可能性や、物価上昇による資産の目減りというリスクを個人が背負う仕組みへの構造転換が、このとき静かに完了したのです。
最低賃金引き上げの裏で進む「帳尻合わせ」
退職金をめぐる企業の防衛策は、近年の労働環境の変化に伴い、さらに新しい局面を迎えています。その大きな要因が、政府主導で急速に進められている最低賃金の引き上げです(出典:厚生労働省「中央最低賃金審議会」目安改定データ)。
毎年上昇を続ける法的な最低水準をクリアするため、一部の企業では退職金や賞与を段階的に廃止し、その分を毎月の基本給に上乗せして反映させる動きが見られます。一見すると月給がアップしたように見えますが、これは総人件費を増やさずに、見かけ上の時給を底上げして法律の基準を満たすための「帳尻合わせ」という側面を持っています。
毎月の給与明細の数字は維持されても、将来もらえるはずだった退職金や、業績に連動する賞与が削られているため、生涯年収ベースで計算すると実質的な処遇向上には繋がっていないという実例も存在します。
正社員という魅力は幻になりつつあるのか
これまで「正社員」という働き方が選ばれてきた最大の理由は、雇用の安定に加え、賞与や退職金によって長期的な生活設計や老後の安心が保障されている点にありました。
しかし、2000年代の会計変革によるリスクの個人移転、そして近年の最低賃金上昇に伴う手当や退職金の基本給化という流れを見る限り、その前提は崩れつつあります。企業側が制度の網の目を潜り抜けるようにして、人件費の固定化やリスク回避を進めた結果、正社員が本来持っていた特権的なメリットは実質的に細分化されています。
国や企業が推進する新しい働き方や投資への誘導には、しばしば後出しのルール変更という落とし穴が潜んでいることも否定できません。会社に身を委ねていれば将来が安泰であるという認識を改め、提示される制度の裏にある企業の意図を客観的に見極める姿勢が、これからの時代を生き抜くための防壁となります。